産経新聞社

ゆうゆうLife

病と生きる 歌手・加藤登紀子さん(65)(上)


 ■「生」を静かに手放した夫

 ■「納得する」死を迎えたい

 歌手、加藤登紀子さん(65)は、平成14年に58歳で他界した自然農法家の夫、藤本敏夫さんの闘病生活を支えた。藤本さんのがん治療のため、西洋医学と向き合ってきた加藤さんは「部分的にがんを治すというのは間違っているという考え方に巡り合った。人間は部分ではなく、トータルで生きています。総合的に診る医療が浸透してほしい」と訴える。(文 竹中文)

 夫は平成10年に大腸がんになり、手術して完治。13年には深刻な肝臓がんになり、肝臓を3分の1ほど切る摘出手術をしました。そしてリンパ節にまで、がんが転移したと分かったときには、お医者さんから「手術はできない状態。放っておけば余命は1年でしょう」と言われたんです。でも彼は、その言葉には「何もしなければ」というキーワードが秘められていると解釈して、「やるべきことは全部やる。だから1年より、もうちょっと長く生きられるだろう」と。ひょっとしたら奇跡が起きるかもしれないと、彼も私も、あきれるほど強気に受け止めていたんです。

 放射線治療で、放射線をあてたリンパ節の部分のがんは治りましたが、次は肺にがんが見つかりました。部分でみると有効な治療ができていて、ひとつずつがんをクリアし、彼は「やっつけた。ばんざーい」とすぐに勝利宣言をしていました。けれど、トータルでは延命はできなかったんです。

 彼が息を引き取る前日に出会った、緩和ケアを行っているホスピスのお医者さんは「部分的にがんを治すという考え方は間違っていると思います。体は生命としてひとつのものであり、全体として生きていると考えなくちゃいけない」と言っていました。そのときに、総合的に診る医療もあり得るのかなと思いました。

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 出会ったお医者さんの個性はさまざま。14年に、夫の肺がんについて、お医者さんから「治療方法はなくはない」と言われた後、診察室を出た彼が「あの医者は優しすぎていかん。『ないならない』と言ってくれたほうが、むしろすっきりするんだけどな」と、厳しく言ったこともありました。

 彼は死ぬことを「納得」したかったんでしょう。あいまいな感じでごまかされるより、元気良く「あの世にいきなさい」と言ってくれるようなクールな関係で、相棒になってくれるお医者さんに会いたかったんじゃないかな。

 人が死んでいくのは苦しいに決まっているし、生きているときだって何が起きるのか分からない大変な時代だけれど、どういうふうに乗り切るかに、ある種の人生の演出がある。自分の人生の演出を失敗したくなかったのでしょうね。

 演出といえば、彼が肺炎で14年7月に58歳で亡くなったあと、いろんなテレビ番組で再現ドラマが作られたんですが、事実と違っていたのは、私役の人が彼のがんが分かったときや彼が死んだとき、泣き叫んでいたこと。それは嫌でした(苦笑)。実際は、とんでもないことが起きたときほど、私は静かに次の一歩を出すことを考えていました。普段はクールじゃないんだけどね(笑)。

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 今、当時を振り返って思うのは、彼は西洋医学に全面的に身を預けるという選択をしたんだなということ。彼は西洋近代主義に抵抗しようとしてきたのに、ある種の内的な矛盾があったなって考えるんですよ。

 彼は余裕を持てなかったのかもしれない。「検査は病院で、治療は漢方の方がいいかもしれないね」という会話はしたことはありますけど、やっぱり目に見えている西洋医学という命綱にすがった。

 それでも死ぬ直前は、ずっと呼吸を一生懸命してきて、最後にマラソン選手がゴールしたときのように、「生」をふっと手放した。一瞬で。最後に私は彼と抱き合って、「素晴らしかったよ。あなたは最後まですてきだったわ」と言いました。彼にはきっと聞こえたと思います。

 誰だって死ぬわけで、人生が終わらなくちゃいけないことは決まっている。このごろ「納得する」という死の迎え方もあるだろうということも少しずつ分かってきたんです。

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【プロフィル】加藤登紀子

 かとう・ときこ 昭和18年、旧満州・ハルビン生まれ。東京大学文学部卒。同大在学中、日本アマチュア・シャンソン・コンクールで優勝し、歌手デビュー。レコード大賞新人賞などを受賞。平成12年には国連環境計画(UNEP)親善大使に就任。今年4月に「農的幸福論」改訂版を出版。7月11日には東京都渋谷区の「Bunkamura オーチャードホール」で、コンサート「Begin again」を行う。公式サイトは(http://www.tokiko.com/)

(2009/05/14)