産経新聞社

ゆうゆうLife

病と生きる 歌手・加藤登紀子さん(65)(下)

 ■歌で支えられずに…後悔/歌手としての姿勢に変化

 がんと闘った自然農法家の夫、藤本敏夫さんをそばで見守った歌手の加藤登紀子さん(65)。亡くなる直前の藤本さんの前では、スケジュールに余裕がないという後ろめたさから、仕事の話をしなかった。加藤さんは「彼は癒やしの音楽を求めていたかもしれない。歌で支えられなかったことを今は悔やんでいます」と振り返った。(竹中文)

 夫は平成13年に肝臓の痛みを訴えました。私は彼に診察を勧めましたが、彼は肝臓にできたポリープを治療していて、その定期検診の予約が1カ月後に入っていたので「検診があるから行かなくていい」と。彼は私に勧められれば勧められるほど、かたくなに拒むというところがあって(苦笑)。でも、さらに一押しがあれば、パタッと崩れたのかもしれないと時々、ふっと思うんです。その1カ月の恐ろしさを私たちは知りませんでした。

 予約の前日、彼がお医者さんに電話をしているのを見たときはそんなにつらいのかと思い、驚きました。彼は検診の日をずっと待っていたけれど、前日にもう待ちきれなくなったのね。

 そんな彼を見て、私の気持ちは張り裂けそうになりました。つらかったのなら、なんでそんなに我慢していたのかしらと。

 痛みの原因は、肝臓を3分の1ほど切らなくちゃいけないぐらいの深刻な肝臓がん。検診にいくまでの1カ月で悪化したようで。そのときに悔やみがうずき、がんの恐ろしさに背筋が寒くなる思いがしました。すぐに肝臓がんの摘出手術を受けましたが、友達のお医者さんは「余命は1年と覚悟した方がいい」。そういう意味の1年として考えなくちゃいけないんだなと思いました。

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 それでも、自然農法家の彼は将棋の終盤戦のようなテンションで、一刻も休めないという状態で、環境問題に取り組んでいました。

 だから、私も彼を支えるために自分が仕事をあきらめるとは考えませんでした。12年から国連環境計画(UNEP)の親善大使になり、彼と一緒に取り組んできた環境問題への道筋が実際に見え始めている最中でもあったので、すべてを辞める気もありませんでした。

 歌手としての仕事もセーブしなかった。仕事の予定は、だいたい3年前に決まるので予定を変更すると、とんでもないことになる。とりあえずやるしかなかったから。

 彼が14年に肺がんで入院したときにも、毎日、レコーディングをしていました。彼が死に近づいていくのを見つめながら私も必死でした。

 私が仕事を続けていたことが本当に彼にとってよかったのかは分からないけど、そういう選択しかできなかった。もし今、「なぜ1年ぐらいは仕事を辞めて彼に寄り添わなかったのか」と責められたら泣いちゃいます(苦笑)。彼も、私が妻より歌手として生きている人だと思っていたようなところがありました。

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 14年7月に彼が亡くなりましたが、出棺のときは私は歌手としては見送れないという気持ちがあり、歌わなかったんです。スケジュールに余裕がなくて、彼に無理をさせているような気がしていたから、最期の時に彼に歌手としての私を見せるのは申し訳ないような気がして。死の直前にも彼にレコーディングをしていることは言いませんでした。

 だけど、今では彼に対して、歌手として何もできなかったことを悔やんでいるんです。彼の死後、「余命1カ月」と宣告された人が、車いすで病院のお医者さんに付き添われて私の歌を聴きに来たことがあって。力になれるかもしれないと必死の思いで歌ったんですけど、もしかしたら、彼も癒やされるような、ゆったりとした優しい音楽を求めていたかもしれないと思ったんです。それで、没後に追悼アルバムを作りました。

 彼が息を引き取ったあとは歌に向かう姿勢も変わりました。生前はステージに立ったときに、お客さんの期待に応えなければいけないという気持ちがなくはなかったけれど、今は違う。目の前にいるお客さんがどういう顔をして聴いているかも大事だけど、それ以上に何かに向かって歌っている感じが大切だと思うようになりました。

 脳裏に浮かぶ彼や亡くなった方々のイメージに向けても歌うようになり、かえってお客さんの心と向き合えるようになった気がします。

(2009/05/15)