産経新聞社

ゆうゆうLife

病と生きる ソプラノ歌手・塩谷靖子さん(65)


 ■想像力働かせ感動伝える/見えなくても変わらない

 明るさもなければ暗さもない。先天性緑内障で小学生のころに失明した全盲のソプラノ歌手、塩谷靖子さん(65)は明暗のない世界を生きながら、豊かな感性で歌を奏でる。歌は遅いスタートだったが、「表現者として見える人と違うと言われたくない」という自負で邁進(まいしん)し、リサイタルを開くまでになった。(文 小川記代子)

 自分の目が見えなくなるというのは分かっていました。言われたわけではありませんが、親が知人らに話していたのを聞いていましたから。

 親を問いつめたり、泣いて困らせたりしたことはありません。そこはかとない怖さはあっても、見えない世界を想像できませんでした。

 戦争中に東京で生まれ、鳥取県境港市に疎開。7歳で東京に戻りました。7、8歳で完全に失明したので、鳥取での日々が見えた唯一の時間です。完全に失明したのはこの日、という感じではありません。徐々に、徐々に見えなくなりました。

 家は豊かではありませんでした。しかし、いずれ見えなくなることを知った両親は、さまざまな経験をさせてくれました。お祭りに連れていったり、高価な色とりどりの色鉛筆を買ってくれたり。境港の自然は豊かで、朝日や夕暮れの光景も脳裏に焼き付いています。唯一、見たことがなかったのが虹。今も虹ってどのようなものか分からないんです。

 ある日、父と2人で列車に乗っていると、駅で花を見つけました。私が「きれい」と言うと、父は発車間際の列車から飛び降り、摘んできてくれました。父が駅員さんにひどく怒られていたのを覚えています。元来口数が少ない父は後年、老化で節制が効かなくなっても、私の目について一言も話しませんでした。それだけ私の失明が父にとって重いことだったのだと今、分かります。

 学生時代から音楽は好きでしたが、全盲の人が音楽で生計を立てるのは難しい。就職し、結婚、出産。趣味で歌っていたときに「専門の先生につけば」と勧められ、声楽を始めたのは42歳です。

 歌を始めて、「見えないと表現に困るでしょう」と言われます。しかし、見える人も知識を持って見るからこそ感動するのだと反論したい。

 たとえば、海の知識があるから大海原を見て感じ入るのであって、知識がなければ海は青く広いものでしかありません。見えなくても知識はあります。その上で想像力を働かせ、感動を伝える。表現する段になれば、見えても見えなくても変わらないのではないでしょうか。

 コンクールで入選し、リサイタルを開くようになると、応援してくれる人が増えました。目と関係なく歌を聴いてくれる。40歳を過ぎて新しい道に進んだ私に「励まされた」と言ってくれる人もおり、うれしい限りです。そんな経緯を、最近出版した『寄り道人生で拾ったもの』(小学館)にまとめました。

 目の見えない人を取り巻く環境は以前と大きく変わりました。

 まだ点字ブロックが今のように広範囲に設置されていなかった学生時代、JRの駅のホームから落ちたことがあります。

 近づく電車の音。「皆さん、さようなら」と思った瞬間、電車が体のすぐそばを通過しました。偶然、ホーム下の待避スペースに体を入れていたのです。ホームから呼びかけた駅員さんは私が生きていると分かって涙声でした。「これはだめだ」と思ったのでしょう。

 ホームから落ちた仲間は少なくありません。点字ブロックの設置が進んでからは激減しました。「点字ブロックが邪魔」「電車の案内放送がうるさい」という声を聞きますが、どれだけ目の見えない人の助けになっているか、少しでも分かってほしいなと思います。

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【プロフィル】塩谷靖子

 しおのや・のぶこ 昭和18年、東京生まれ。東京教育大(現筑波大)付属盲学校高等部専攻科を経て東京女子大文理学部卒。家族は夫と一男一女。平成7〜9年、奏楽堂日本歌曲コンクール連続入選。「千の風」などのCDをリリース。7月25日には東京都東久留米市の成美教育文化会館でコンサートを開く。ホームページはhttp://www.nobuko−soprano.jp/

(2009/06/05)