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アカデミー賞外国語部門ドイツ代表「善き人のためのソナタ」
4年におよぶ徹底調査 33歳新人監督の快挙
1月23日(火) by 久保亮子
昔話。「ひとりで米一俵をたいらげられるか」という挑戦を受けた男が「できる」と答え、白米がてんこ盛りの茶碗と向き合うと、米粒を一粒一粒をはしでつまんで食べ始めた。しばらくして相手は男のしぶとさに根負けする。ここで確かなのは一粒一粒でも茶碗から米が減り、いずれはなくなるということだ。

善き人のためのソナタ

戦争について考えるとき、この昔話を思い出す。それまでの善がじわじわと悪になり、やがて世の中が大きく変化する。戦争の理不尽さと不幸は、細かな変化が大きな変動になる境界に浮かび上がる。

冷戦時代に東西ドイツを分断した「ベルリンの壁」は1989年11月に崩壊した。同年2月、壁を越えようとして射殺された20歳の若者が最後の犠牲者となった。わずか9カ月後には壁をまたいだところで、殺害されることはない。

◆ ◆ ◆

この映画でも、この境い目の“不幸側”で主人公たちが翻弄(ほんろう)される。

ベルリンの壁が崩壊する5年前の旧東独を舞台に、ナチス時代のゲシュタポと比較される秘密警察・諜報機関、シュタージの内幕と、彼らに監視される1組の芸術家の切ない愛を描く。

本国ドイツでは、3月に公開されて以来、現在もロングランを更新中。165万人以上の動員を記録し、本年度アカデミー外国語映画賞候補にも選ばれ、昨年12月のヨーロピアン・フィルム・アワードでは最優秀作品賞、最優秀主演男優賞(ウルリッヒ・ミューエ)、最優秀脚本賞の3冠に輝いた。

映画のいち場面

国家保安省(シュタージ)局員のヴィースラー大尉(ウルリッヒ・ミューエ)は、劇作家のドライマン(セバスチャン・コッホ)と、ドライマンの恋人で舞台女優のクリスタ(マルティナ・ゲデック)が、反体制的であるという証拠をつかむよう命じられる。ドライマンのアパートの屋根裏で諜報活動するヴィースラーだったが、彼らの自由な思想や愛の言葉、美しいピアノの旋律を耳にして今までに知ることのなかった新しい人生に目覚めていく…

ドライマンは統制下での芸術活動に疲弊し、西側から届く自由の風にいらだちがつのる。また、クリスタは、時の大臣の権威に身を売りながら舞台に立っていた。その2人を徹底的に監視するシュタージのヴィースラーもまた正体のないイデオロギー(国家意識)に操られていた犠牲者かもしれない。

時代の束縛があっても「善」を追求するドライマンやクリスタにはまだ人生の充足感がある。が、盗聴という倫理的「悪」に没頭しながら「善」の喜びを押し殺さねばならないヴィースラーには不幸がにじむ。

ヴィースラーにとってクリスタは憧れの女優だった。その恋慕がやがて彼の任務の妨げとなっていく。ある日、大臣との密会をドライマンに知られ、失意のクリスタをヴィースラーは励ます。ファンの1人としてクリスタと向き合い、言葉を交わす。“捜査対象”に顔を明かしたことは後にヴィースラーの一生の悔いとなる。

やがてクリスタを尋問することになったヴィースラーは、机をはさんで背を向けることしかできない。ファンだと告白し、彼女を支えた「真実」を失いたくないのだ。ようやく向き合ったところでクリスタが見せた表情に、女優、マルティナ・ゲデックの実力を知る。瞳に一瞬の驚きと、世界すべてへの絶望の影がさしたかと思うと、わずかな冷笑でヴィースラーを見すえて口を割るのだ。

人間の真価を問う場面だ。ヴィースラーはクリスタを欺き、クリスタもまたドライマンを裏切った。しかし、後に2人はこの罪悪をある覚悟をもって清算する。

◆ ◆ ◆

シュタージはベルリンの壁崩壊後に解散。ヴィースラーがクリスタを尋問してから4年半後のことだ。目には見えない政治的抑圧が時代を支配する。わずかな時の流れの誤差で人々の運命が異なるはかなさ。

はしで米一粒一粒をつまむように、善は悪となり、やがて昨日より今日、今日より明日に善となりうる。人は暮らす時代を選べない。

これは、自身を問い続けることの責任と意味を時代に語らせる作品だ。



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