人は年を取れば丸くなる、という。彼もきっとそうに違いない。昨年80歳を迎えた“20世紀最後の革命家”フィデル・カストロだ。
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186センチの長身に軍服。1959年のキューバ革命後に「公約をすべて果たすまでは剃(そ)らない」と宣言したあごひげは、皮肉にもその後の彼のトレードマークにもなっている。半世紀にもわたり中南米、キューバ共和国の国家元首を務めたが、その私生活については、実はほとんど知られていない。
そんなカストロを2002年、米国の社会派監督、オリバー・ストーンが直撃。3日間のべ30時間にも及ぶインタビューを行い、これを100分にまとめたのが、このドキュメンタリー映画「COMANDANTE(コマンダンテ)」だ。スペイン語で「司令官」を意味する。
カストロは「いつでも撮影をやめることができる」ことを条件にインタビューを許可した。が、一度もカメラを止めることはしなかった、とストーン監督は振り返る。
キューバ革命にはじまって戦友チェ・ゲバラとの別れ、冷戦時代、旧ソ連との密月、キューバ危機、ベトナム戦争。さらには女性問題、プライベートまで矢継ぎ早に質問し、カストロをかく乱するストーン監督。だが、まったく動じない。誠実に、熱く、時には豪快に語る。
カストロの演説好きは有名だ。国民を前に炎天下であろうが、なんと10時間以上も熱弁をふるう。革命時には、山中の陣営を訪れる外国人記者にぜい弱な部隊という印象を与えないよう、“コマンダンテ”の威厳を即興で演じた逸話も残る。また、あまり知られてはいないがカストロは弁護士でもある。
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撮影当時は75歳。さすがに衰えも隠せないが、巧みな話術は老成のわざというよりは、世界に“小さな大国”と言わせしめた指導者の、強靭な意志と知力のみなぎりを感じさせる。
「人生が2度あって、1度目は練習。2度目が本番だとしたら?」。監督が投げかける。
「君は哲学的だね。私なら1度だけの人生に練習と本番があればいいと思う」
時効も、あるいは正解などない事件、歴史の局面についてもおくせず答える。
たとえば革命後のゲバラの対米批判については「彼は米国を非難したのではなく、米国民に怒っていた」と最高の同志を弁護したうえで、「革命以前のキューバは事実上、米国の植民地下に置かれていた。革命後も米国は経済制裁の措置を取るが、それが正しいことなのか、彼は闘っていたのだ」。
社会主義国を宣言するまでの約2年間をカストロらは国家路線の模索に費やした。破綻した経済の再建にサトウキビからとれる砂糖を世界で売り歩いた。
教科書で学ぶような事件も出てくるから多少の歴史を知っていたほうが、より分かりやすいし、興味深いにちがいない。
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キューバが世界史に登場するのは1492年。コロンブスが発見し「世界でもっとも美しい島」とたたえた。その後はスペインが4世紀にわたり植民地とし、20世紀初頭には米国が介入。1902年、形式上の独立国としてキューバ共和国が成立した。52年、かいらい政権バチスタ軍が統治。53年、カストロが反バチスタ闘争を開始。ゲリラ戦を展開していくなか59年、キューバ革命が達成される。
以後、米国はキューバを“大国の喉に刺さった小骨”と自虐的にやゆし、経済制裁を続けている。
記者は2年前にハバナを訪れた。世界遺産に登録されているハバナ旧市街には昼夜問わず、葉巻と音楽とがあふれていた。陽気な国民性を肌で感じた。
「カストロを好きか?」と数人に尋ねてみた。「どちらでもない」という答えが多かった。
物質的な豊かさは感じなかったが、医療と教育は無償で、小麦や牛乳、パン、タマゴといった基礎的な食材は配給される。そのせいか国民の社会への不満も小さいようだ。
ただ現在、カストロは体調不良のため全権を実弟ラウルに委譲したまま公の場に姿を見せていない。真の病状は国家機密として明らかにされてはいない。何度か手術を試みてはいるが成功せず、回復が遅れていると先日、報道されていた。
英雄か、独裁か−を判断する作品ではない。「好きな女優はソフィア・ローレン、ブリジッド・バルドー」。じょう舌な“コマンダンテ”だけでも一見の価値は、ある。