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「ミス・マヌエラ」戦前に上海を席巻
ダンサー和田妙子さん95歳大往生 
  東京朝刊 by 別府育郎
戦前の上海でダンサーとして活躍し、戦後はクラブ経営者として多くのジャズメンを育てた和田妙子さんが18日午後、東京都八王子市の病院で亡くなった。95歳。葬儀・告別式は近親者で済ませた。

和田さんは北九州・小倉の出身。昭和3年、松竹楽劇部1期生に合格し、もらった芸名は「水の江たき子」。「ひらがなが気に入らなかったから」と同期生の「東路道代」と交換し、後に名を滝子とかえた同期生は愛称ターキーの大スターとなった。一方の和田さんは2度の結婚を経て13年に、上海に渡った。

国籍不明のダンサー「ミス・マヌエラ」としてフランス租界のクラブでスパニッシュを踊り、「魔都の花」として人気沸騰。市内一の繁華街、南京路の朝鮮銀行の壁には十八番の「ペルシャンマーケット」を踊るマヌエラの大きな写真が飾られた。国歌を演奏しながら行進していた米海兵隊のマーチングバンドは、写真の前にくると曲を「ペルシャンマーケット」にかえたという。

開戦時には連合国側のスパイと疑われて日本の憲兵隊に身柄を拘束され、終戦時には日本のスパイとして米国の陸軍情報部の取り調べを受けた。帰国後は東京・内幸町でクラブ「マヌエラ」を経営した。上海仕込みの英語と度胸で行儀の悪い進駐軍の兵隊をしかり飛ばし、この店で前田憲男、ジョージ川口、マーサ三宅らが育った。いわば戦後日本のジャズの育ての母でもある。波乱に満ちた和田さんの人生は、西木正明氏の小説「ルーズベルトの刺客」のモデルにもなった。

和田さんは「ミス・マヌエラ」として上海の人気ダンサーだった
和田さんは「ミス・マヌエラ」として上海の人気ダンサーだった

戦前の上海の様子を伺いに、東京・渋谷のマンションを訪ねたことがある。真っ昼間というのにきりりと冷えた日本酒で迎えてくださり、少し顔を赤らめながら、こんなことをいった。「昔は人に肌を見せることが好きだったんだけど、最近はお風呂あがりに鏡を見ると、なんだかしわしわで、まるでおばあちゃんみたい」。当時、89歳。

長年の親交があった帝国ホテルの犬丸一郎元社長が昨年見舞った際にも、許可を得て街に出て、ビールをグラスで一杯飲んだのだという。「きっぷがよく、いつまでもかわいい人でもありました」。犬丸さんは、故人をそうしのんだ。

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