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悲劇は希望の灯に
英で舞台「ボヘミアン・ラプソディー」 フレディ再び
  東京朝刊 by 木村正人/ロンドン
「カワイ子ちゃんたち! 楽しんでいるかい? さあ、弾(はじ)けようぜ」

1986年、ロンドンのウェンブリー・スタジアム。英国の伝説的ロックバンド、クイーンのリードボーカル、フレディ・マーキュリーがステージから約8万人の観衆に向かって叫んだ。英南東部ラムフォードのキース・ローズフェルドさん(48)とギルさん(48)の夫妻も観客席で身をよじらせていた。

ミュージカルの劇場正面で、右こぶしを突き上げる得意のポーズで、観客を迎えてくれるフレディ・マーキュリーの像(撮影・木村正人)
ミュージカルの劇場正面で、右こぶしを突き上げる得意のポーズで、観客を迎えてくれるフレディ・マーキュリーの像(撮影・木村正人)

結婚27周年の8月23日夜、夫妻はロンドンの劇場でクイーンのヒット曲でつづるミュージカル、「ウィ・ウィル・ロック・ユー」を見た。最終幕、「ボヘミアン・ラプソディー」が歌われると観客は総立ち。「彼は神様、そしてゲイ。奔放に生きた彼をみんな愛している。彼の音楽のおかげで、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)感染や同性愛者への偏見は薄れた」と、ギルさんは言った。

劇場正面に設置された巨大像のように、右こぶしを突き上げるのが、フレディ得意のポーズだった。4オクターブに及ぶ驚異的な声域でハード・ロックからオペラ調の曲まで壮麗に歌い上げ、フレディとクイーンはロック界の頂点を極めた。

ファルーク・バルサラ(フレディの本名)は1946年、英国の保護領だったタンザニア・ザンジバル島でペルシャ系インド人を両親に生まれ、「いつも海外雑誌を見てそこでの暮らしを想像していた」(母親ジャーさん、映画『人生と歌を愛した男』から)。5歳のころ、叔母からピアノの手ほどきを受けた。多様な文化的背景と、非白人の移民という境遇が、フレディの人生観と音楽を育てたのかもしれない。

退廃を極めたお祭り騒ぎ、音楽への没入、そして同性愛への傾斜。「僕は美少年と同じぐらいゲイなのだ」と公言していたフレディは、HIVに感染して発病、音楽活動はかなわなくなった。

「僕の周りの人々のプライバシー保護のため公表しないのが妥当だと思っていた。だが、世界中の友人やファンが真実を知るときがやってきた。すべての人々が、僕の医師やこの恐ろしい病気と闘っている世界中の人々に理解を示してほしい」

91年11月23日に、エイズ(後天性免疫不全症候群)発病を、こんな表現で公表した翌日、フレディは息を引き取った。その遺言により、英史上最高のシングル曲とされる「ボヘミアン・ラプソディー」の印税は、英HIV基金「テレンス・ヒギンス・トラスト」に寄付されることになった。

トラストのニック・パートリッジ理事長は「この曲が92年にCDで再びリリースされると英国だけでなく多くの国で2度目のヒット・チャート1位になった。100万ポンド(約2億3400万円)近いお金が寄せられた。これだけでも彼の偉大さが分かる」と話す。そして、「当時は有効な治療法がなく、HIV感染とエイズへの恐怖心が渦巻いていた。フレディの死後、ファンを通じて支援の輪が広がった。悲劇は音楽により希望の灯に変わった」と振り返った。

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