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「緻密さとしゃれ…異才だった」
追悼・市川崑監督 三國連太郎さんら想い寄せる
2008/2/19 産経新聞  大阪夕刊
故・市川崑監督
俳優・三國連太郎さん
僕も5本くらい出ているんですよ。市川崑監督の作品に。でも、ご迷惑ばかりかけていた記憶がある。どちらも自己主張が強いから(笑い)。とにかく、異才という言葉がぴったりの人でした。

初めてお会いしたのは、僕が25、26歳ごろのとき。たしか、俳優の伊藤雄之助さんの紹介だった。そのときも思ったが、「ビルマの竪琴」(昭和31年)に出たときも、お亡くなりになった奥さんの和田夏十さんと本当に仲が良く、ずっとそばでアドバイスを聞いていた。「ビルマの竪琴」の脚本は和田さんですが、彼女の書いたセリフを一字一句変えずに撮影していたのが、今でも思い出されます。本当に愛を感じました。

でも、撮影現場は厳しかった。セリフはもちろん、カット割りも緻密(ちみつ)ですべて計算ずく。だから、私たちのような素人俳優にとっては、やりにくかったですよ(笑い)。だって、一挙手一投足すべてを綿密に決めてから、撮るんです。まあ、あんな監督は他にいないですね。

だからこそ、お亡くなりになられたのは、実にもったいないというほかはないでしょう。私は晩年の市川監督とはあまり仕事はできませんでしたが、今思い出すのは、市川雷蔵さんらと一緒に仕事をさせてもらった「破戒」(37年)のとき。市川監督が撮影開始の合図を確か「ワン、チャのホイ」と言ったんです。現場がパッと明るくなりました。

厳しいだけの人ではなかった。そんな、場を和ますような、しゃれた感覚もあった。だから、女優さんとかは、逆にやりやすいと思っていた人もいたのではないでしょうか。本当に異才でしたね。(談)

映画評論家・上野昂志さん
市川崑監督というと、真っ先に浮かんでくるのは、煙草をくわえたダンディーなその姿である。ついで、数々の作品が脳裏をかすめるが、それはあまりにも多彩、多様で一つには収まらない。喜劇もあればメロドラマもあり、文芸作品もあれば華麗なミステリーもある、といった具合に、自在にジャンルを横断しながら、市川崑ならではの映像世界を繰りひろげてきた。そこに一貫しているのは、旺盛な実験精神と、洒脱な遊び心である。

市川監督の映画人としてのキャリアは、昭和8年、東京のP・C・Lと並ぶ最新の録音設備を備えた、京都のJ・Oスタジオの発声漫画部(トーキー・アニメーション)に入ったことから始まる。そこで彼は、ディズニーやポパイのアニメーションを研究しながら、企画から作画、撮影まで一人で担当したという。この経験が、のちのちの映画作りに大いに役立ったという。

事実、『足にさわった女』(昭和27年)や『プーサン』(28年)などは、それまでの日本映画にはない斬新な映像感覚、リズム感で世間をアッといわせたが、それは、この時代のアニメーション制作のなかで培われたものだろう。それはまた、増村保造や中平康ら後輩監督たちにも少なからぬ影響を与えた。

しかし、市川監督に対する評価は、『こころ』(30年)、『ビルマの竪琴』(31年)あたりから始まる文芸映画において、一挙に高まる。これは、たぶんに喜劇を低く見る日本社会の空気にもよるだろうが、ただ彼自身のなかにも、文芸ものでも、一級品を作れるところを見せてやろうという矜持(きょうじ)もあったのではないか。実際、その後も『炎上』(33年)や『おとうと』(35年)などの秀作がある。

だが、そこに安住せず、『私は二歳』(37年)や『太平洋ひとりぼっち』(38年)といった、映画化が難しい題材に取り組み、見事な作品にしてしまうのが、市川崑なのだ。そこには夫人で最強の協力者であった和田夏十さんの脚本の力も大きかったに相違ない。50年代からは、横溝正史原作のミステリーを華麗に描いて若い観客を魅了したが、テレビドラマでも、多大な貢献をしたことを忘れてはなるまい。いまの日本映画には、『プーサン』のような闊達(かったつ)な精神こそ必要だと思うだけに残念である。市川崑さん、どうぞ、ご夫人のもとで安らかにお休み下さい。(寄稿)



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