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SUMiRE MEMO
by 辻川敦/尼崎市立地域研究史料館
7月22日 大阪朝刊
連載 産経新聞における主な宝塚関連連載記事は次のとおりです。

・東京本社が発行する毎月第1、3月曜日朝刊の「ザ・タカラジェンヌ」

・大阪本社が発行する毎週土曜日夕刊の「すみれの園を創る人たち」


・大阪本社が発行する夕刊では、毎月不定期火曜日に大判の写真をあしらった連載「タカラヅカ90th きらめく星たち」も。

番組表 東京版朝刊TVメディア面のBS・CS欄にはCSチャンネル「TAKARAZUKA SKY STAGE」の番組表と解説を毎日掲載しています。

OG関連記事 演劇一般など、それぞれ活動のジャンルごとに掲載しています。
ENAK編集部
編集局文化部
 
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宝塚 街の歴史
小林一三が夢見た今と未来
小林一三
阪急電車がなければ、いや、小林一三がいなければ、宝塚は今と全く違う姿になっていたのかもしれない。

大劇場 宝塚温泉の歴史は、武庫川西岸の伊孑志(いそし)地内に泉源が発見され、明治20年に宝塚温泉として開業したことにはじまる。やがて付近に料理店や旅館が軒をつらね、明治30年の阪鶴(はんかく)鉄道(現JR宝塚線)敷設は大阪方面からの湯治客を増大させた。

こうした流れをさらに大きく進めたのが、阪急の前身である箕面有馬電気鉄道の開設と、経営者小林一三による経営戦略であった。

明治39年設立の箕有電鉄は、43年宝塚線を開通させる。街道沿いの旧町場をつなぐ阪神と違って、郊外電車の箕有は沿線生活圏と鉄道需要を創出せねばならず、小林は沿線に池田室町をはじめ、郊外住宅地を造成し、終端の梅田と宝塚には百貨店ターミナルや行楽地を設けて、通勤のみならず休日も電車に乗り余暇を楽しむライフスタイルを提案する。

ハレの街
かくて明治44年、阪急は宝塚温泉の対岸に新温泉を開業、客向けの催しとして少女歌劇を構想し、唱歌隊を募集養成して大正3年には初公演を行う。以後大正から昭和初期にかけて、劇場を造り歌劇を本格化するとともに、屋外遊戯施設や動物園、映画館などを備えたルナパーク(のちの宝塚ファミリーランド)や宝塚ホテルを開設する。

ガーデンフィールズ こうして宝塚は、多様な余暇を楽しむ施設が集積する、いわば小林一三の理念を体現する街となる。では、その成功の秘訣はなんだったのか。

「歌劇を中心に非日常のハレの場であり、人々が街全体のメルヘン的な雰囲気を楽しむ。そういう街を造って郊外に客を引っぱってくることに成功した、いわば壮大な実験都市といえるのでは」と分析するのは、宝塚市立中央図書館副館長で市史資料担当も務める倉橋滋樹さん。

歌劇の歴史を調べておられる倉橋さんによれば、宝塚にならって戦前は各地に少女歌劇が流行した。戦時期にそれらが消えていくなか宝塚だけが生き残り、やがて世界的に知られるようになる。その要因は、地理的環境を背景とした街全体のイメージづくりの成功にあったのだという。

花のみち
とはいえ、宝塚も決して順風満帆に繁栄してきたわけではない。太平洋戦争の後半、特攻隊を養成する予科練の施設として、歌劇場が接収されていたことはよく知られている。そして阪神・淡路大震災による被災と復興。しかし宝塚が一番厳しい現実に直面しているのは、まさに現在なのではないか。図書館に倉橋さんを訪ねた後、阪急宝塚駅と歌劇場(宝塚大劇場)を結ぶ「花のみち」を歩いてみて、そんな風に感じた。

花の道 あたり一帯には震災前後の再開発によるビルが立ち並ぶが、往事を知る人からは、以前の木造のみやげもの屋や飲食店が軒をつらねる、情緒豊かな街並みをなつかしむ声をよく聞く。確かに歌劇場に加えて、みちの向こうには市立手塚治虫記念館や宝塚ガーデンフィールズもある。しかし正直なところ、昨年閉鎖されたファミリーランド跡地にぽつんと残るメリーゴーラウンドの骨組みや、対岸に見える休館中の市立宝塚温泉の、安藤忠雄氏設計の「斬新な」シルエットが痛々しかった。

宝塚のおかれている状況は、高度成長からバブル崩壊を経て今日に至った、日本の戦後地域経済の縮図なのかもしれない。

銅像となって「花のみち」から今も見守り続けている小林一三は、自らが創出した街の現状と未来を、どんな風に見ているのだろうか。

宝塚史解明に尽力された人は少なくない。職員として市史を完成させた後、若くして逝去された若林泰(ゆたか)さんもその1人。また在日韓国・朝鮮人史に取り組まれた故鄭鴻永(チョンホンヨン)さんのことも、記憶に留めたいと思う。大正−昭和初期の宝塚の河川改修や鉄道工事などに、多くの朝鮮人が従事した歴史を著書『歌劇のまちのもうひとつの歴史』に残された。初めてお会いした際「同胞たちの流した汗が、今の街の基盤を造ったことを記録し伝えたい」と静かに語っておられた様子が、今も忘れられない。


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