「僕がひとたび入社した以上は、将来会社の経営陣に参加して売り上げ倍増どころか、5倍10倍にもして、国内販売はもちろんのこと、輸出面においても革命的大発展を実現し世界一流の大会社にしてみせます」
入社試験の面接会場。植木等演じる若手サラリーマンは面接官に言いたいことを言い終えると、「どうも失礼致しました。今後ともよろしくッ。アッ!」と去っていく。
昭和39年に公開された映画『日本一のホラ吹き男』(東宝)のワンシーンだ。
日本経済は当時、右肩上がりで、企業は設備投資を続け雇用は拡大。サラリーマンは会社に忠誠を尽くし、がむしゃらに働くのが当たり前の世の中だった。
そんな高度成長時代に「無責任」シリーズ、「日本一」シリーズなどの映画が矢継ぎ早に公開された。無責任、ホラ吹き、ゴマすりを駆使し、自由奔放にのし上がっていく植木演じるサラリーマン。その姿に、「責任をとるのと真面目であることをもっぱら上から下にだけ厳しく要求される世の中に生きてきた大衆は、天井に穴があき、いっぺんに留飲がさがるのを感じて、快哉(かいさい)を叫んだ」(大衆映画の世界=長部日出雄)のだった。
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「あのころは仕事があふれ、みんながモーレツに働いた。毎日、『明日はきっと良いことがある』と信じられた時代だった。そんな夢があった時代に植木はうまく乗った」
人気番組「シャボン玉ホリデー」(日本テレビ)の放送作家だったはかま満緒(69)はそう振り返る。
植木が「ハナ肇とクレージーキャッツ」に参加したのは、経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言した翌年の32年。神武景気、いざなぎ景気、国民所得倍増計画ノ。「まじめに働けば必ず出世できる」とみんなが信じていた時代だった。そして40年代前後になると、カラーテレビの普及とともに人々の生活にも余裕が生まれてきた。
そうしたなかでメまじめさモを嗤(わら)い、管理社会を風刺する植木の役柄は若いサラリーマンを中心に許容されていった。クレイジーシリーズの監督だった坪島孝(79)が語る。
「まじめなサラリーマンが出世していく定番映画へのアンチテーゼとして書かれた脚本だった。そろそろ少しは遊んだり、手抜きしたりしてもいいのではないか。そんな雰囲気が出始めた時代でもあった」
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「ぼく自身、株式会社渡辺プロのサラリーマンですから。芝居をしながら、こんなに気楽に生きられたら、どんなにすばらしいだろうと思った」
「無責任シリーズ」が大ヒットした37年、当時34歳だった植木はこう語っている。
その年、東京都世田谷区内に家を新築し、押しも押されもせぬスターの仲間入りを果たしながら、実生活は普通のサラリーマンと同様、まじめで堅実だった。
渡辺プロから渡される月2回の給料は、袋の封を切らずにそのまま奥さんに渡し、その中からお小遣いをもらっていた。使うのはたばこ2箱と食事代。1日1000円あれば十分だった。
自分のやりたいことと、やらなければならないことは違う。仕事というものを意識し始めたのもこのころだった、とも後年、語っている。
あるサラリーマン出身の作家は当時、「あの人はきっと、サラリーマンの悲哀を一番よく知っている」と評しているが、だからこそ悪びれることなくテンポ良く飛び出すモ植木節モに、サラリーマンは自分を重ね、拍手喝采(かっさい)を送ったのだ。
付き人だった俳優、小松政夫(65)が言う。
「それにねえ。素顔は人以上に責任感が強く、だれにでも親切で人を気遣った。若い人が緊張しているのがわかると、自分の方から包み込むように胸を開いていった。そんな人だったからセリフにも情があり、感動を与えるサラリーマンを演じられたんだと思うよ」
昭和30年から40年代にかけての高度経済成長期、破天荒な笑いを振りまき、サラリーマンに夢を与え続けた俳優、植木等。50歳を超えてから新境地を開き、味のある名脇役としても私たちの心に強い印象を残した。時代とともに、植木の歩んだ道をたどる。
