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最後は希代のエンターテイナーらしく、満場の拍手に送られていった |
平成5年9月10日。「クレージー・キャッツ」のリーダー、ハナ肇=当時(63)=の死を、植木等は仕事先の北海道で聞いた。仕事を終え都内に戻ると、真っ先にハナの元へ駆けつけ、枕元で読経を捧げた。谷啓(75)らと若き日のビデオを見ながら、ハナの思い出を語り合い、集まった報道陣の前で口を開いた。「支離滅裂という言葉がありますが、支えが離れたわけで、名前は残っても、きょうで解散です」。それは植木による、クレージーの解散宣言だった。
15日の告別式では弔文を持たず、遺影に向かって大声で「ハナ!」と呼びかけた。こらえていた涙があふれ、しゃくりあげながら語りかけた。
「おれはさびしいよ。体の中から魂が抜けたようだ。お前が16でおれが19。たった47年間の付き合いだったが、クレージーの面々に思い出をありがとう」
終戦後まもなく、2人は刀根勝美楽団のバンドボーイとして顔を合わせた。学生服の19歳の植木と、16歳のハナの初対面の会話は「おい、どこのセイガク(学生)だ」。「はい、東洋大学です」。ハナが3歳年下だとは後で知った。たった47年というが、長い長い仲だった。悲報は続き、6年には石橋エータロー=当時(66)、8年には安田伸=同(64)=と相次いで仲間を失った。
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谷啓、桜井センリ(77)、犬塚弘(78)、そして植木。残った4人が一昨年11月、渡辺プロダクション50周年のパーティーで顔を合わせた。この年、松任谷由実(53)とともに、4人は「Still Crazy For You」を吹き込んだ。
レコーディングの様子を、松任谷は「さよならの会」でこう語った。「それぞれのパートをレコーディングしているとき、仲間のプレーに慈しむような視線で耳を傾け、この時間を1秒でも長く共有したいと思っている様子で、ご自分の番が済んでも皆さん最後まで帰ろうとしなかった。ミュージシャン仲間が年を重ねるのって、なんて素晴らしいことだと思いました」。葬儀委員長として松任谷の言葉を聞いた犬塚は、こらえきれないように顔を覆った。
植木の最後の仕事となったのは、昨年11月、映画「舞妓Haaaan!!」(6月公開)。お座敷遊びの常連老人役の植木はさっそうと和服姿で現れ、アドリブで現場を爆笑に包んだという。だが、このころすでに自らの死期を悟っていたのだろう。同じ11月、登美子夫人とマネジャーに「何かあったら密葬にしてくれ」「延命措置はやめてくれ」と伝えていた。
昨年12月、数多くのヒット曲を作詞した盟友、青島幸男=当時(74)=の通夜に参列したのが公の場での最後の姿となった。酸素吸入器の管を鼻に通し、車いすに乗っての参列だったが、焼香の際には厳然と立ち上がった。
今年1月16日、食欲不振を訴えて都内の病院に入院。3月8日に一時帰宅したが、翌9日に再入院。桜井は12日、谷は17日、犬塚は25日に見舞った。そして27日午前、夫人とまな娘が見守るなかで亡くなった。
長年、植木の付き人を務めた小松政夫(65)は名古屋の公演中に危篤を知った。登美子夫人から「帰ってくるんじゃないよ。植木が喜ばないわよ」といわれたが気が気ではなく、毎日電話を入れた。26日が千秋楽。翌日見舞いに向かう車中で悲報を聞いた。「ご家族のみなさんが、私が帰ってくるのを待っていたんだよと言ってくださった。こんなにうれしいことはなかった」
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今月27日、都内で行われた「さよならの会」には2000人が参列し、最後は大画面に、自らの作詞による「植木等ショー」のエンディングテーマ、「星に願いを」を歌う映像が流れた。自慢の「ビロードの声」でバラードを歌い上げ、階段を一歩一歩上がっていく。葬祭場を包む満場の拍手と「植木屋!」のかけ声を両手を広げて受け止め、さっと右手を挙げた。
「はい、ごくろうさん!」
晩年は性格俳優としても成功したが、幕切れは見事にエンターテイナーとして締めくくった。会場を最後に出てきた犬塚は空を見上げ、「いいやつだったなあ」とつぶやいた。(敬称略)=おわり