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植木等伝説
(4)苦悩から新境地 完璧主義の顔
5月1日(火)朝刊
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「若いころからシリアス路線でやってきた人と比べると、確かに私は何か違う。自分でも説明できないけど、その何かがあるから声がかかるんでしょう」

平成11年4月。勲四等旭日小綬章を受けた植木等は会見で、“個性派俳優”として確固たる地位を築いた理由を問われ、そう答えている。当時72歳。芸能生活もすでに50年を超え、黙っていても貫禄(かんろく)が漂う。しかし、喜劇俳優からの転身は決して「スイ、スイ、スーダララッタ」というわけではなかった。

「スーダラ節」(昭和36年」、「無責任」(37年)で一世を風靡(ふうび)した植木は、その後もクレージー・キャッツの一員として、同様のシリーズ映画に多数出演した。年間12本の映画に出演したこともあった。

一方で「このままでいいのか」と思い悩んでもいた。当時の心境を、植木は朝日新聞のインタビュー記事(61年12月)で次のように告白している。

「あれを十何年もやっていて、なんとかここから脱出をともがいた時期もあった。クレージー・キャッツから離れようか。そんなことも考えたことがある」

「『無責任』がやれなくなったらほかに何がやれるのだろう。何にもやれないのでは、という不安がわいてきた」

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高度成長期が終わり、「安田講堂事攻防戦」(44年)、「あさま山荘事件」(47年)、「オイルショック」(48年)…と暗い世相が広がりをみせ始めると、植木の出番も減っていった。

新境地を開いたのは52年の舞台「王将」だった。名優・辰巳柳太郎も演じた坂田三吉役。やってみたいが、自信がない。だが「役者として年齢的にも経済的にもラクをしたがりそうな時期だったので、これはいかん、それを乗り越えるためには冒険を」(同年6月、毎日新聞)と自分を追い込んだ。当時50歳。舞台は「植木三吉、辰巳三吉に負けず」と評判となった。

その後、シリアスな映画からの「お呼び」が相次ぐ。60年に黒澤明監督の「乱」。61年、木下恵介監督の「新・喜びも悲しみも幾歳月」では日本アカデミー賞最優秀助演男優賞に輝いた。

飄々(ひょうひょう)とした雰囲気を漂わせながら、演じるときはいつも真剣勝負。決して手を抜かなかった。

「お金を払って来てくれたお役さんと毎日が勝負。こんな厳しい人生はありません」。平成8年、明治座公演で座長を務めたとき、こう語っているが、この言葉には“役者”として生きていくことへの覚悟がにじんでいた。

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浮かれた時代が再びやってきて、植木が往年の笑顔を振りまくようになる。戦後最大の好景気といわれた「バブル時代」のことだ。その頂点ともいえる2年、クレージー・キャッツ結成35周年記念でCD「スーダラ伝説」(ファンハウス)発売。これが大ヒットし、23年ぶりにNHK「紅白歌合戦」にも出場した。

「いまは死ぬまで働いても、都心に家一軒持てないし、定年までも見通せない。ストレスはたまり放題。スーダラ節がうっぷん晴らしになるんじゃないですか。昭和と平成、両方の無責任男を演じることに責任を感じています」

高度成長期に最初に歌ったときと同様、「戸惑いもあった」と言いながら、変わらぬパワフルで陽気な歌声を披露した。

期待された役柄を、期待以上にこなそうとする植木を、ザ・ドリフターズの元メンバー、加藤茶(65)は「完璧(かんぺき)主義者だった」と振り返った。

加藤によると、植木は会うたびに「加藤はいいな、加藤はいいな」と言っていたという。

「ぼくはそのとき、どういうことを言っているのか分からなかった。最近になって、いろんなテレビをみて分かった。植木さんは悩んでいたんですね。植木さんは完璧主義。ぼくはどうでもいいやという人間。その違いでしょうか。でも、もう悩むことはないですよ。そっちにも3人いった友達がいるでしょう」 (敬称略)
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