ようこそ劇場へ
東京宝塚劇場支配人 小川甲子さんインタビュー(2)

 01/12/11 産経新聞東京夕刊
 Text By TAKUBO,Oko/田窪桜子@東京文化部


今年1月に開場して間もなく1年を迎えようとしている東京宝塚劇場。笑顔で観客を迎えてくれる背筋のすーっと伸びた女性が同劇場初の女性支配人、小川甲子さんだ。かつて宝塚歌劇団のトップスター・甲にしきとして活躍。さらに女優を経て、萬屋錦之介さんの妻になり引退と、いくつもの人生を歩んできた小川さんが、次の人生のステージに選んだのがこの劇場だった

[2]小さいころからスター

−−どんな子供でしたか

小学校のころのほうが、スターみたいだったんですよ。小さいころから日舞を習っていましたから学芸会では日舞を踊り、鼓笛隊では指揮をして、運動会で走ればいつも一番でしたからね。それで、小学校の先生が親に、「宝塚歌劇団に入れたらどうだろう」と言ったそうです。何となく、目立つ存在だったのでしょうね。

先生は才能を見抜いていらっしゃったのですね

卒業するときに、校長先生がサイン帳に「自分の天分を十二分に発揮できるのが一番の幸せです」と書いてくださった。兄、姉、皆同じ小学校だったので、他の先生もかわいがってくださって、小学校時代はすごく楽しかったですね。

−−その先生の助言がきっかけで宝塚に入られたのですか

いえまだ、そのころは、自分から入りたいという気持ちはなかったですね。17歳離れた姉が宝塚を好きで、小さいころから時々見てました。越路吹雪さんの舞台は、すてきだったなと覚えていますが。

−−では、なぜ宝塚に?

中学ではテニス部に入ったのですが、1年生の夏にはレギュラーになって試合に出してもらっていましたから、運動神経は良かったんですよ。ちょうどそのころ、『インディアン・ラブ・コール』を見て、タップダンスを習いたいと思ったんです。でも、どこで習っていいか全く知らなくて、宝塚ならできるかなと。同じ学校から三人受けてみな合格しました。

『インディアン・ラブ・コール』(白井鐵三脚本・演出、故里明美主演)は昭和31年8月に月組が上演。小川さんは昭和33年、宝塚音楽学校に入学。昭和35年、首席で卒業し宝塚歌劇団に入団した

宝塚音楽学校は競争率がとても高くて、受験のためのけいこが大変だそうですが

私は受験の前年の夏ぐらいから、宝塚コドモアテネ(小学4年から中学3年までの女子が学ぶ宝塚音楽学校付属校)に通い始め、バレエも習い始めました。ピアノは最低点。日舞とバレエは幼稚園のときに習っていたのに、日舞の先生が厳しくて「どちらかにしなさい」といわれ、バレエのほうを辞めてしまっていたのでね。

−−それで、首席になるのは大変なことですね

ピアノは予科だけで(2年目の)本科になると、スケートに変わりましたから。私の時代は、宝塚オン・アイスというアイスショーがあったんです。動いているほうが向いていましたね。

−−“ダンスの甲にしき”と呼ばれる素質はそのころから

確かにダンスではいいスタートを切ったのですが…。歌ができなくて、入団後はとても苦労したんですよ。



[1]意外と合っている支配人
[2]小さいころからスター [3]「ほんと、歌では苦労しました」
[4]舞台の後にテレビ撮影
[5]宝塚って本当にあったかい
[6]どこまでも奥深い「芸の世界」
[7]家が大好きな夫・錦之介
[8]夢生む良さは変わらない

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