今年1月に開場して間もなく1年を迎えようとしている東京宝塚劇場。笑顔で観客を迎えてくれる背筋のすーっと伸びた女性が同劇場初の女性支配人、小川甲子さんだ。かつて宝塚歌劇団のトップスター・甲にしきとして活躍。さらに女優を経て、萬屋錦之介さんの妻になり引退と、いくつもの人生を歩んできた小川さんが、次の人生のステージに選んだのがこの劇場だった
[3]「ほんと、歌では苦労しました」
初舞台は昭和35年4月の星組公演『春のおどり/ビバ・ピノキオ』
−−初舞台の思い出は?
上級生3人とタップダンスのシーンをいただきました。ですから、初舞台生のラインダンスは出てないんですが、口上は丹後のちりめんで舞妓(まいこ)さんの格好をして全員そろって出ました。
−−初舞台でタップシーンとは異例の抜擢(ばってき)ですね
本当に出だしは良かったんです。研1(入団1年目)の5月には、新人公演(本公演の演目を新人だけで上演する公演)で役をいただいて、7月の東京公演では1週間ほど代役をさせていただいてました。研2でも、ダンスシーンでは振り付けの先生が前のほうに入れてくださったりと、ダンスは順調にいってたんですけどね。
−−芝居のほうは
そこそこにね。研2の『河童とあまっこ』(昭和36年)ではかっぱ役(主役)。研3の時に歌で失敗した後も、次の『皇帝と魔女』(37年)では、淀かおるさんの家来の役で、レインボー賞の新人賞をいただきました。
38年には、芸術座『銀座残酷物語』やテレビドラマ『夫婦百景』に外部出演。同年の『落日の砂丘』で主役、翌年の『洛陽に花散れど』でも出雲のお国役で主演。昭和40年代に入ると、同期生の上月晃、古城都の3人が3Kと呼ばれ大人気となる
−−歌での失敗とは
研3の『哀愁の巴里』です。新人公演で主役をさせていただいたのですが、本役の淀かおるさんは、すごく歌が上手。その淀さんに合わせた歌ですから、キーは高いし難しい。本役では、フィナーレの前に、主題歌をお客さまと一緒に歌う、歌唱指導の場面であまりのへたさにびっくりされて演出の先生に「ダンスに変えてもいいよ」なんて言われて。
−−変えたのですか
歌いましたよ。私は歌いたかったもの。それほど下手だと思っていなかったのかな。そのころは自覚症状がなかったのかもしれないですね。
−−演出家は分かって歌唱指導に起用したはずですよね
演出の先生は「歌はへたや」と耳にしていても、もうちょっとマシやと思っていたんじゃないですか。ゴンちゃん(上月晃)が歌が上手だったでしょう。同期だから大丈夫だろうと思ったのかもしれませんね。
−−歌が苦手でも、役は次々ときましたね
次の主演は『アルルの女』(白井鐵三作・演出)という、葦原邦子さんがしてはった作品を再演したんですよ。葦原さんが歌っていらっしゃった場面は私も歌いたいと言ったら、白井先生は「練習台にされちゃこまる」と、全部せりふになってしまった。ほんと、歌では苦労してたのよね(笑い)。
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