−−平成12年に退団され、すぐに旅行会社に勤務されるご主人と結婚されましたよね
姿月あさと 宝塚時代、旅行先の香港でトラブルがあったとき、助けてくれた人です。
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旅行会社勤務の赤坂信太郎さんと結婚式を挙げた=平成12年7月、東京・帝国ホテル |
−−この年は退団、結婚、ご主人の赴任先のバリ島に移住、と全く別世界に行っちゃいましたね
姿月 それがまた違和感なくいきましたね。
−−ただ外国も、生活するとなると厳しい部分もありますよね
姿月 誰一人知っている人はいないし、親もいないし、言葉もしゃべれないし、主人が会社に行ったら1人じゃないですか。最初の半年間くらいは牢屋みたいな狭い所に住んでいたし。
−−それは心細い…
姿月 本当に。買い物もどこに何を買いに行けばいいのか分からないし。だから本を見て、1人でとにかく歩きました。車の運転も初めできなかったし、言葉も全然分からなかったけれど、とりあえずモノを買ったり、食べたりってことをしないと生きていけないから、まず食べ物の言葉を覚えました。
−−語学学校にも行かず、自力でインドネシア語を勉強されたそうで
姿月 ホントに困って、サバイバルがあった方が覚えるんじゃないかな。だって覚えなきゃ、しようがないんだもん。
−−英語も通じないんですか
姿月 通じない人が多かったですね。1冊の(語学の)本を、本当にボロボロになるまで持って、調べて言うって感じ。でも楽しかったんだと思う。嫌だと思ったことないから。インドネシア語で知らない人としゃべって。日本にいて、知らない人に話しかけないじゃないですか。
−−市場のおばちゃんなんかが親切で、話し相手になってくれたそうですね
姿月 しゃべる人がいなかったからね。初め友達もいなくて、いつも1人だったから、知らない人としゃべってましたね。私は「逃げ場」として結婚した訳じゃ全然ないんですけれども、宝塚時代のガーっていう(多忙な)生活から、いい意味で天と地ほど違う生活になって、(周囲が)誰も私を知らないというのが、楽しかったんだと思います。
−−本名に戻っての生活ですよね。若いし言葉も早く覚えたでしょう
姿月 いや時間かかりましたよ。でも黙っていては生きていけないから。
−−海外で暮らしながら、日本に“飛行機通勤”で仕事を続けられて
姿月 年に10往復ぐらいかな。でも(宝塚を)辞めてからは体にガタがきたって感じで、いつも元気だったわけではないです。30歳になるまで宝塚の時は1回も休んだことはなかったですけど、十何年間の疲れがどっと出たのか、何回も入院したのが現実です。「宝塚トップでした。結婚しました。外国住みました。日本に仕事で来てます」って、外からは「なーんていいんだろう」ってところばかり取り上げられるけれども、そんないいことばっかりじゃないですよ。
−−外国人観光客ら約200人が亡くなった2002年のバリ島爆弾テロ事件のころは、バリにお住まいで、現地でチャリティーコンサートをされましたね
姿月 本当に事件の1時間くらい前に、その(自動車爆弾があった)道を車で通ったんです。